6/16/2009

夢のつづき

今から考えると、相当渋い趣味だが、
小学生の頃、伯母の影響で安全地帯がとても好きだった。

その安全地帯の歌の中に"夢のつづき"という歌がある。
この歌は、別れなければならないとても好きな人のことを
想いつづった曲である。

小学校6年生の頃、とても好きだった初恋の人がおり、
小学校を卒業するとその人と違う中学に通うことが事前に
わかっていたのだが、そんな頃に、この曲をよく聞き、
感慨に浸っていたことをとてもよく憶えている。。。


話が少し変わるのだが。。。

このアメリカ留学が終わりを迎えようとしている今、
改めて考えてみて、今回の留学は僕にとって本当に
"夢のつづき"であったように思う。

僕は学生時代、本当に英語が嫌いな学生であった。
英語の成績が飛び抜けて悪く。それでもって、英語の対して
コンプレックスというか、恐怖心が常に僕の中にあり。
電車の中で外国人を見つけると、「もしや声でもかけられる
のでは」となどとびびって車両を変えるような始末で。
これは完全に外人恐怖症と言っていい。

そして、このままではいけないと一念発起して、大学生の頃に
オーストラリアに英語の勉強をしに行くことにした。

その時に受けた衝撃は、それからだいぶ歳を重ねた今にいたっても
生々しい記憶として僕の頭に焼き付いている。
この世界には僕が未だ見たことのないものが、山のようにあり、
そして英語を話すことで、どれだけ自分の世界が広がるのかという
事をその時に思い知ったのである。

それは、なんてゆったらいいのか、頭上からたらいが落ちてくる
といったらいいのか、脳天に電気が走るといったらいいのか、
脳細胞の全てが激震するようなそんな衝撃であった。

もともとの能力がなかったこともあって、その時はそれ程英語も
身につかなかったのであるが、それ以来、海外でもう一度過ごして、
英語を身につけたいというのが、僕の大きな憧れとなった。

それから10数年が過ぎ、僕はその夢のつづきを見るという幸運に
めぐりあう事になる。
僕のとって、それが今回の留学であった。

。。。

夢が実現すると、それは厳しい現実となるのは世の中の常なの
だろうか。
実際の留学は、僕がそれまで夢見ていたような甘いものではなかった。

英語力が全く伸びているように感じず、自分の語学力のなさを
これでもかこれでもかというほどに、思い知らされた毎日であった。

舌・のど・耳、全てにおけるネイティブスピーカーとの決定的な違いと、
英語、日本語とも自在に操れるバイリンガルとの決定的な壁を
思い知らされ、その違いに叩きのめされる日々であった。

そして、それより何よりも辛かったのは、僕がこの留学を決めた
ことで苦しむことになった家族の苦悩を目の当たりにしたこと
であった。

引きこもりのようになる妻、夜中に泣きじゃくる娘、病気した時に
感じるあまりの不便さ・不安、夫婦喧嘩。。。結婚してから今までで
最大の危機がこのアメリカ滞在期間中にあったように感じる。

アメリカに来たことは、家族のことを考えると、実は間違った選択
だったのではないか、とさえ考えたこともあった。

しかし、徐々に強く逞しくなり、幼稚園でも出来ることが多くなる
子の姿を見、そしてそんな子を守ろうと母としての強さを身に
つけていく妻の姿を垣間見るにつれ、その不安も次第に小さく
なっていったように感じている。

奥さんと娘は先にすでに日本に帰ったのであるが、帰国前の半年
ほどは、妻も子も笑顔で過ごすことが多くなり、そしてアメリカ
での思い出を苦しいながらも貴重なものだと感じながら、帰って
いったようなので、それは本当に良かったと感じている。

僕自身はと言うと、

この間の金曜日に卒業式が行われた。その中で教授の1人がスピ
ーチを行ったのだが、そのスピーチの中で教授は、僕について結構
長い間言及してくれて、お世辞だと思うが、アメリカの学生とは
違う多様な物の見方を共有してくれて感謝しているというような
ことを言ってくれた。それは本当に心の震える時間であった。
僕のこの2年間が報われたように感じた瞬間であった。

僕はあふれる涙を止められずに、そしてきっと止めようともせずに
無様に涙を流した。

それはやはり"夢のつづき"であったのかもしれない。


英語は、「2年間留学してました」なんてとても恥ずかしくて言えない
ほどに上達していない。でも同時に、自分なりに一所懸命やったので、
それはそれで仕方ないかとは思えている。

そして、英語を自分の思いのままに扱えるようになるという僕の
"夢のつづき"は、人生のもう少し先に見られればいいかと、
今は思っている。

そんな日はいつか来るのだろうかという不安がないわけではない。
普通の人が5年で身につけられるところが、僕は10年かかるかも
しれない。
やはりそれでも、時間をかけてでも、いつかは身につけたいと思える
ほどに、英語を話せるというのは本当に素敵なことだなあと改めて
痛感した日々でもあった。

またいつか留学出来ればいいな。
今度はヨーロッパに住んでみたいので、イギリスか??なんて。。。

僕には、妻も子も、そして大概いい歳の母親もいるので、実際は
無理なことかもしれないが、50歳?60歳?じいちゃんになって
子供が成人して、少しゆとりが出来た頃にでも、実現することが
できれば、それはきっと素晴らしいことだなあと密かに考えている。

その時に、またこの"夢のつづき"を観ることにしよう。

"どれほど季節が どれほどめぐり来ても
 楽しかった日々は 忘れない"


※契約の関係で、明後日以降、インターネットが接続出来なくなる。
 なので、アメリカから書くブログは、これで最後になると思います。
 だらだらとした長文。もし最後まで読んでいただけた方が
 いらしたとすれば、今までありがとうございました。

 50?とかなって、また夢を観ることが出来れば、その時にでも
 ブログ再開するかも?です。

 ひとまずは さようなら
 
 また日本で!!

6/07/2009

最後のプレゼン

この週末、最終論文についての発表会が行われた。

論文を完成させて、そのプロジェクトについてのプレゼンをする。
これがこの2年間の最後最後に課された課題である。

プレゼン時間は20分。英語でやることを考えれば長いが、
そのプロジェクトを取組むに至った経緯・方法論・結果・その結果
からの考察などを説明するなるとかなり短い時間である。

僕の論文のテーマは、訳するとそのままではないんだけど
「日本社会を再生させ、持続可能にするための3つの提案」
ってな感じ。それを他国との比較政策論的に展開させるという目論見。

僕はどうもテーマを大きくしすぎるきらいがあるらしい。
そのために研究としてはどうしても抽象的でまとまりのない結論に
いたってしまう。たしか大学生の時もそうだった。
「君の論文は、エッセーとしては面白いが、研究としては抽象的だ」と
教授から言われたのを記憶している。
あの頃からあまり成長していないのだろうか。。。

でも、とにかく最後の論文を書き終えた。そして、プレゼンテーション
も無事終了した。

で、出来の方はというと。。。
客観的な評価はわからないが、自分としてはとても満足している。
論文もプレゼンテーションも、今僕が持っているもののベストを
出し切れたように感じる。

いよいよこの留学も終わりに差しかかろうとしている。
後日、担当教官との話し合いが行われ、僕の書いた論文に関しての
意見交換と評価がなされる。それが終わればいよいよ卒業式だ。

やったーっ!!
もうこれからは英語の本を何時間もかけて読むこともない。
もう、ついてけないディスカッションに参加しなくてもよいのだ!!

プレゼンテーションを終えた夜、家に帰ってきた僕を心地の良い疲れと
充実感が包む。
それと同時に、表現しがたい寂寥感がとめどなく襲ってくる。

どうも、この学校を去るのはとても寂しいことのようだ。

卒業式までちょっと時間があるので、カメラでも手にして、構内を
ゆっくり散策してみたいと思う。

5/19/2009

Soraの1年半

今月の末に、娘の幼稚園の卒園式が行われます。

アメリカでは、日本の幼稚園にあたるのがPreschoolとKindergarten
の2種類に分かれていて、3-5歳児はPreschoolで学びます。
Kindergartenは、小学校の準備学校というような位置づけで、
Preschool終了後、小学校に入学するまでの1年間というのが
一般的なようです。

娘は、今Preschoolに通っていて、それがこの5月に終了します。
ちょうど僕の卒業と時期を同じにしているのはラッキーだと思います。
一応、幼稚園を卒業するという経験を出来るのは、娘としては
重要なことだと思うからです。

それでその記念として、幼稚園の様子をビデオに撮らせてもら
えるように幼稚園にお願いし、今日、奥さんがビデオを撮りに
行ってくれた。

そして、僕が学校から帰ってくるのを待って、家でビデオ上映会
が行われました。

こちらに来る前は、一年半こちらで過ごせば、小さい子供は英語
を覚えるのではないかと思っていましたが、実際はそんな簡単な
ものではなかったようです。もちろん、子供によって違うと思いますが。

家では100%日本語だし、Soraは自分から積極的に前に出るタイプ
ではないのもあって、正直、ほとんど英語は話せないままです。
先生の話は少し理解できるようになってきているようですが、
あとは他の子の見よう見まねと想像力で、なんとかこなしてきたと
いう感じですね。

なので、ビデオに映っているSoraも、それほど発言することもなく
他の子に引っ張りまわされながら遊んでいるのですが、それでも
、いやきっとそれだからこそ、父はとても感動しました。

5歳にもなると周りの子は、結構ペラペラ話を出来るので、英語の
話せないSoraにとっては苦しい環境に違いないが、でも来た頃と
比べると段違いにクラスメートと交わるようになっていました。

"勉強の時間"では常に一番前に座って、先生の話に耳を傾ける
Sora。初めの頃は、もじもじ尻込みして、一番端っこに座っていたの
とは大きな違いです。

外遊びの時には、今幼稚園で流行っているという三輪車遊びに
積極的に参加していました。2人用自転車を友達と笑いながら
漕ぐ我が子を見て、本当に胸がいっぱいになりました。

すると、三輪車の順番待ちをしている子供達から、
"Go! Sora, Go! Sora"
の大合唱。
英語をろくに話せない日本人を、何の偏見もなく受け入れる
子供達の無邪気さと寛容さに、 心打たれました。

Soraのこの1年半は、けっして順調なものではありませんでした。
幼稚園に行きたくないと駄々をこねることは、あまりありません
でしたが、夜中に泣きだして止まらなくなったり、そんな子を見て、
奥さんがホームシックになったり、大変な時期もありました。
僕の都合で、2人をアメリカに連れてきてしまったことを、申し訳なく
ずっと思っていましたし、途中で奥さんと子供だけ日本に帰ろうかと
話し合ったことも何度もありました。

でも、このアメリカの幼稚園で過ごした1年半は、きっと無駄ではない
と思います。
この苦しかった経験と、そしてこのビデオに映っているあなたは、
あなたがこれからの人生を生きていく中で、辛いこと苦しいことに
出会った時、必ず勇気と力を与えてくれることでしょう。

そして、体のどこかで憶えていてほしいと思います。
異邦人でありキリスト教徒でもない私達を快く受け入れてくれた幼稚園。
あなたの多様性を素晴らしいことだといつも教えてくれた先生。
言葉の壁を越えて触れ合うことの出来たクラスメート。
あなたが4-5歳の時を生きた、この景色を、この臭いを、この感覚を。

ははっ。まだ卒業してない、してない。
涙するのは、娘の卒業式までとっておきたいと思います。

5/13/2009

帰国準備

新型インフルエンザが猛威をふるっていますね。
日本では大変な騒ぎになっていると聞いています。
震源地であるアメリカでは、実はそれ程大きな問題にはなっていません。
もちろんそれなりの報道もされていますが、トップニュースというわけ
ではなく、いくつかのニュースの1つという扱いです。

それで、山根家もそれ程深刻には考えていなかったのですが。。。
感染者数が3,000人に達し、それも氷山の一角に過ぎないと政府が
発表している状況において、さすがに気になってきました。

帰国まで、感染しないように十分気をつけたいと思います。
ま、でも学校行かないといけないし、社会生活しないといけないし。
手洗いうがいを徹底します!


この国から出て行く日がいよいよ近づいてきた。

奥さんと子供は僕より一足先に帰国する予定にしているのだが、
その日まではもう一ヶ月をきった。

それで、最近徐々に帰国準備を始めている。
実はこれ結構めんどくさい。。。
家具など売れそうなものは買ってくれる相手を探したり、日本に送る物を
荷造りしたりしないといけないのだ。

幸か不幸か、車を事故で廃車にしているので、車の売り先を捜さなくて
いいのはだいぶ楽だな。
アメリカでは車の個人売買が普通に行われていて、ディーラーをとおすより
高値で売れるので、本来であれば今頃から売り先を見つけ始めないと
いけなかったはずなのである。

日本に送る荷物の方は、ほとんどが子供の本やらおもちゃやらですな。
送り賃の方が高くつくような気もするが、子供が大事にしているものは
送ろうということになった。

で、やたらとあるのがぬいぐるみ類。
こっちに来る時は全く持ってこなかったはずだが、じいちゃんばあちゃん
から送られてきたり、旅行先で買ったり、幼稚園の友達にもらったりで、
今はかなりのぬいぐるみが我が家に生息している。

妻と話して、娘が本当に気に入っているものだけを日本に送ろうという
ことになった。
Soraにそれを伝えて、日本行きのぬいぐるみ達を選ばせる。
どれも持って帰りたいと駄々をこねるSora。
選抜第一段階が終了したが、ほとんどが選ばれたままなので、
「もう少し絞り なさい」という両親。
泣きそうになりながら、いくつかのぬいぐるみを諦めるSora。
そんな娘を見て、自分の決意がかなり揺らぎそうになりながらも、
じっと堪える父。

結果。
かなりの数のぬいぐるみ達が振るいにかけられ、いくつかの精鋭達が
残りました。

Sora: はぁ~、この人形連れてあの旅行に行ったなぁ。。。
そうだった、そうだった。
娘がそのぬいぐるみを抱いている写真を思い出す父。

Sora: 幼稚園行くのが辛かった時、このぬいぐるみと一緒に行くことで
     元気になれたんだよなぁ。
。。。

その一言で父、負けました。

父: そのぬいぐるみも持って帰ったらいいしょ。

母: はぁ~!?

奥さんからの大ブーイングを受けながら、3つのぬいぐるみが敗者復活!!


そうなんです。僕は貧乏性なのか、あまり物が捨てられない人であります。
特に、"思い出が詰まった"とかに弱い。

僕は結婚してから、何度も引越しをしているのだが、その度に妻から
「捨てろ!捨てろ!」と言われながらも、持ち続けている思い出の品が
詰まった箱がありました。
アメリカに来る時に、さすがに置いておく所がないので、泣く泣く処分
したが。。。

今回のアメリカ滞在は、嬉しいことも苦しいことも、感動した日々も
苦難の日々も いっぱいあったので、日本に是非持って帰りたい思い出
の品たちが、ごろごろしています。

今は、「全部捨ててくよ!」
なんて、気軽に言っているのだが、実際に捨てて帰れるのだろうか。。。

4/17/2009

リセット

イチロー選手が最多安打の日本記録を作り替えましたね。
おめでとうございます!
それもシアトルで達成なんて~!!
こないだのWBC(もちろんかぶりつきで観てた)といい、日本人の
活躍を本場アメリカで味わえるということが、とてもラッキー
だと思います。

実はイチロー選手って、あんま好きではないのだけれど、ほんと
凄いですねー。かっこいいですねー。

今回は、そのイチロー選手について書きたいと思います。
僕は野球下手なので、技術的なことはさっぱりわかりませんが、
気になったことがあったので書きます。

それはイチロー選手のある仕草。

イチロー選手は、よく言われているように、同じルーティンをこなして
同じ間合いを持って、いつも打席に向かいます。
打席に入る直前に、入念に屈伸運動をして、そして足場を固め、バット
を回して、肩の位置でバットを一旦静止し、相手のピッチャーと相対
します。
その仕草が、剣道や居合の構え、武道の型に似ていることから、侍の
イメージと重ねられるのでしょうね。
そのルーティンをこなすことで、いつも平常心で、自分の間合いで
勝負出来るのだという解説はよく言われているとおりだと思います。

僕が気になったのは、その後なんです。
ピーチャーが一球、二球と投げた頃、イチロー選手は一旦打席を外し、
ヘルメットをかぶり直します。
この仕草を観て、ふと遠い昔のある記憶が蘇りました。

それは、ファミコンのリセットボタン。

僕は、イチロー選手のあの仕草ってリセットボタンだと思うんです。
"しまった!打ち損じた"とか、"甘い球を見逃してしまった"とか、
"このピッチャーやけにいい球投げるな"とか思った時に、そういう
一切の雑念を消し去るためのリセットボタン。

ヘルメットをかぶり直す時に、"カチャ"って。

ま、僕が勝手に思ってるだけなんだろうけど。。。
そうして、リセットして、また平常心に戻って、自分の間合いで
次の一球と相対しているような気がしてならないのです。

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歳をいくぶんか重ねてきて、このリセット機能って、生きていく
中で、非常に重要な要素なのではないかと考えるようになりました。

生きていたり、働いていたり、こうやって文化の違う人と付き合って
いたりしていると、自分の思うようにならないことや、腹が立つことや、
後悔することが山のように出てくる。

その時、その気持ちをリセット出来るかどうかってとても大事だと思う
んです。もちろん、ファミコンと一緒で、リセットが効かない時も
ある。リセットしても完全に元に戻らないこともある。でも、自分の
リセットボタンを持っているかどうかで、かなり違うと思う。

僕は、若い頃、気持ちを切り替えるのがとても下手な人間でした。
落ち込んだ時は、とことん落ち込んじゃう。
でも、社会人になって、その性格のせいでとても苦労しました。
今から考えたら、そんなに悩まなくてもいいようなことで、深く長く
悩んでいたような気がします。
そして今になって思うと、それは平常心に戻すための、リセットボタン
を持っていなかったことが、大きな原因の1つだったように思うのです。

で、今、僕のリセットボタンはなんなのだろうかと。。。

それは言わない。

4/16/2009

Hibiki

長い長い冬が終わり、僕の住む街にもやっと春がやってきたようです。


春が好きだよ、一番。
若かった時は、陽が傾いた感じの秋が一番好きだったが、最近は春。
あと、昔は夏の暑さより冬の寒さの方が、まだましと思っていたが、
歳取ってからは、寒いのがなんせ辛い。関節とか痛いし。。。

特にこの辺りは、冬は寒い上に来る日も来る日も雨ばかり。
身を縮めて、春がやって来るのをひたすら待っていたような気がします。

そして、ついに春がやってきました。
ここの春は本当に美しい。
多分、木々も冬の間はひたすらこの寒さに耐え、雨をしのいで
生きてきたのだろうと思われ。。。
その分、春が来た時のハジケ感が半端ないのです。
もし、僕が童心を持ち続けていたならば、彼らの歓喜の声を聞くことが
出来たであろうほどに、その緑は鮮やかで、そして瑞々しく。
そして一斉に、いろんな色の花が咲き乱れます。

最近、子供をバス&歩きで幼稚園に送っていってるのだが、途中で
Soraの花摘みが延々続いて、いつも遅刻ぎみです。

僕の春学期も始まりました。これが、この留学の最後の学期になります。
先日、卒業式の時に着る、ガウンと帽子を申し込みました。
僕の学校のスクールカラーが緑なので、かなりのダサさを醸し出して
おりますが、とにかく感動の瞬間が近づいてきております。
いよいよ終わるって感じがしてきたよ~。

この学期は、修論的なものを書かなければなりません。出来るだけ、
自分で納得出来るものを書ければと思っています。


先日、トルコ人の友達のオムの家に食事に行ってきました。
以前、オムがうちに来て飯を食ったことがあって、その日は
お礼にトルコ料理をオムが作ってご馳走してくれるとのこと。
マジ、お前飯作れんの??って思ったけど、お言葉に甘え、
家にお邪魔してきました。

予想どおり?オムはいまいち料理苦手そうなんだけど、
そのもてなしの精神ってのがすごくて、とても関心しました。

料理も出来ないのに、それでも必死にトルコ料理(?)を
作っているオムを見て、もてなすってのは、そりゃ美味い
にこしたことないんだろうけど、それ以外の要素が占める割合も
大きいのだなあと改めて知りました。

普段は金ないないって言って、携帯も車も持ってないんだけど、
その日は豪勢な食材を買い込んできて、いや、そういう物の問題
でもないんだろうけど、なんてゆうか心意気というか、人のために
尽くすというか、忘れかけていた大切なものを、ふと思い出させて
くれたように感じます。

でも、出してくれた料理が、マトンの料理だったんだよね。
僕は羊の肉がめちゃ苦手。。。食べたらおえ~ってなる。
もちろん全部食べましたが、出してくれたアップルジュースで
流し込むという戦法に出てたのに、オムは気付いてたらしく、
「実は、お前苦手なんじゃないの?」と聞かれました。

ごめ~んっ!オム!!
もう少し、人間磨いて出直してきまーーす!

4/03/2009

事故

もう先月のことであるが、車の事故をしてしまった。
結果から言うと、僕も相手の女性も大きな怪我はなく。
でも、車は廃車。。。

日本でも事故して、車を廃車にしたことがあるので、これで
2回目だな。てか、俺って運転下手なのかもな。

でも、誰も大きな怪我をせずに済んだのは不幸中の幸い。
肉体的にも精神的にもダメージを受けながらも、せっかくした
経験なので、日本との違いも考慮しながら記録しておきたいと
思います。

-------
その日は、子供を幼稚園に送った後、いつものように車で学校に
向かっていたんだ。
すると、サイレンの音が聞こえて、救急車が近づいてきたので
僕は車を路肩に止めようと思い、減速。

その時に、後ろから大きな衝撃が。
なんてゆうんやっけ?おかま?をほられました。
その道は制限速度が50mile(80km)だったので、結構な衝撃でした。

そんとき思ったのは、「あーーっ、やってもた。。。」
帰国まであと3ヶ月だったので、事故なく帰国したいなって
ちょうど思ってた頃だったんだよね。

車を止めて、相手の車に近づくと、乗っていたのは、多分免許
取りたての若い女性。
かなり動揺している様子で、I'm so sorry...と言っていた。
相手の車は、ボディがタイヤにめり込んでいて、動かすことが出来ない。

とゆうてる間に、消防車と救急車が到着。時間にして5分後くらいか。
アメリカでは事故があると、消防車、救急車、パトカーがまずは全て
やってきます。
消防隊員は、車が爆発する危険がないかのチェックと人命救助、それから
交通整理などを迅速に行います。
救急隊員は、乗員の健康状態をチェック。僕の事故の場合は、僕も相手の
女性も自分の足で歩けるし、意識もしっかりしていたので、問題ない
というような書類を作成して、帰っていきました。

その後、一番遅れてパトカーがやってきました。
簡単な事情聴取を行って、事故の書類を作成。これは、日本と同じ。

その頃、相手の女性の母親が事故現場に到着。この辺から、急に相手の
女性の態度が豹変したんだよね。自分は悪くない!みたいな。。。
はあ、、、やっかいなことにならなければいいけど。。。

警察は、書類を作成した後、それを当事者の両方に渡します。
で、「もう行っていいよ」って。
車はどうすればいいのか?聞いたら、自分が乗って帰れると判断すれば
乗って帰ればいいし、危険だと判断すればレッカー業者に連絡を取れ
ということでした。おっ、なんとも自己責任の国!
危険かどうかわからんけど、なんとか走れそうなので、僕は車に乗って
とりあえず家に帰りました。

日本の時は、保険会社の担当者がすぐに現場に来てくれたんだけど、
こっちではそういうことはありませんでした。
僕の保険会社に電話して、事情を説明すると、それは相手に責任が
あるだろうということで、相手に非を認めてもらえるように、まずは
相手の保険会社と交渉しろと言うことでした。

ちなみに、保険会社との話し合いは、全て通訳を介して行うことが
出来ます。通訳を付けてくれと言うと、日本語の通訳にも電話が通じて
3者通話という形で、交渉が行われます。
おそらく、日本では定着していないシステムですが、これは外国人
居住者にとって、本当に助かるシステムでした。さっすが、多民族国家
アメリカだと思いました。

相手の保険会社からは、次の週の月曜日に電話がありました。
結構、気合いを入れて交渉にはのぞみました。その日は、事故の内容を
説明し、僕の言い分と向こうの言い分を確認しあって終わり。
次の日、再び電話がかかってきて、思っていたよりあっさりと向こうが
100%非を認めました。
僕としては、これでだいぶほっとしたんだ。

そこからの展開は早かったです。次の日、担当者が車の状況を把握しに
やってきて、その次の日には修理にかかる費用が算出されました。
その見積りが車自体の価値よりも高額だということで、保険会社からは
修理するつもりはないと言われました。
この車自体を査定し、その金額を支払うので、そのお金で修理するか
しないかは判断しろということでした。多分、これは日本と同じ。

僕は、少し車に愛着も感じていましたが、廃車にすることにしました。
事故の日から、約2週間レンタカーが支給されました。どうでもいいけど、
これはめちゃいい高級車やった。

事故後、少し脳がくらくらしてたので、病院にも一応行きました。
簡単な検査で、大丈夫!ってことやったんやけど、その後も1週間ほどは
頭痛は続きました。ほんま、大丈夫かいな??
ま、最近やっと頭痛もなくなりました。

そして、最後に車がレッカーされていきました。1年半しか乗って
なかったけど、いろんなとこに連れて行ってくれた車だし、
レッカーされていくのを目にするのは、少し辛かったです。
僕らのアメリカ生活を支えてくれました。今まで、ありがとう!!です。

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というような感じで、この件はひとまず一件落着。


昨日、学校からの帰り、大きな交通事故現場に出くわしました。
ボンネットが完全にひしゃげて、無惨な状態でした。さらに痛々
しかったのは、事故現場にチャイルドシートが転がっていたこと。
自分も事故をしたところなのもあって、やるせない、苦しい
気分になりました。
乗っていた方の無事を心から祈ります。

皆様も車の運転には、十分にお気をつけ下さい。